公立中学校の社会課の教員をしています。先日「政府開発援助」(ODA)の授業をしました。その日の夕方、教えてほしいことがあると13歳になったばかりの女生徒が職員室に私を訪ねてきました。
そして立て続けに考えさせられる質問を受け、正直、回答に困りました。いや、答えられませんでした。
質問のまず一つ目は「先生、貧困とはなんですか?」
次に「私の家は貧困だと思います。助けてもらえないのはなぜですか?」
さらに「外国の人を助けるよりも、自分の国の貧困者を助ける方が先ではないのですか?」
そして「途上国の貧困者と、日本の貧困者はどちらが幸せですか?」
最後に「私は途上国の貧困家庭に生まれていたら不幸と思わなくてすみましたか?」
どの質問にも、答えられない自分がいました。情けなかったです。
質問に答えられなかった情けなさに加え、その生徒を『可哀想』と思っている自分がいること、憐れむ目で彼女を見ている自分がいることを知りました。彼女の質問に何一つ答えられず、『教員・先生』とは何かわからなくなっています。未来新聞で書評を読みこの本を知りました。私が今読むべき本だと思ったので、電子版で「知ることの不幸と幸福」(バロック・ティチェナー著)を今しがた読み終えました。表紙をめくると「知らなければ良かった」、「知れて良かった」と始まります。深く考えさせられる内容でした。読み終えて尚、「知らぬが仏」、「正直の頭に神宿る」・・・女生徒へどんな答えが適当なのでしょうか?なんと答えたら良いのか、まだわからないでいます。
投稿日: 1970/01/01 09:00:01 (JST)
※本記事は、対象となっている事柄について、無限に広がる未来の可能性の中のたった1つを描いているに過ぎません。 ですから、決して記事の内容を鵜呑みにしないでください。 そして、もし本記事とは異なる未来を想像したのなら、それを別の記事として書いていただけると幸いです。 このプロセスを通じて、私たちは未来についての視野を広げ、未来の可能性を切り開いていくことができるでしょう。
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