福島県相馬市、およそ390年続いた歴史に幕を引くか、存続の危機に立たされているひとつの窯元が立ち上がった。田代窯は、これから迎える数年間の空白期間の活動方針・計画とそれに紐づく必要資金について、ホームページ上で提示した。これに伴い、今月13日から有志団体の全国への寄付呼びかけが開始された。
田代窯は相馬駒焼(※)を生産する唯一の窯元で、現役の窯としては日本最古の登窯を持つ。これまで幾多の大地震に耐えた丈夫な窯である。全壊を免れたものの、焚き口と最後尾の房が壊れた。
十五代 田代清治右衛門(せいじうえもん)さんは、去年から体調を崩し入院していたが、震災前の春、小康を得て再び製作を開始していた。深い爪痕を残した大震災は、再スタートを切ろうとする気持をくじく出来事であったろう。それでも6月中旬頃焼いた素焼が残っている。50歳を過ぎて時間がないとしきりに言っていた十五代だったが、ぎりぎりまで「相馬駒焼」に命を捧げていた。猛暑の7月に亡くなられた。享年64歳であった。
継承されるはずだった清治右衛門さんの長男、土師命(はじめ)も数年前に他界されていて、技術の継承はまだ終わっていなかった。残された家族は、過去の作品や、十五代が生前にその伝統を科学的に解明、保存しようとして駒絵の変化、使用釉薬の種類などを分析・データベース化したものなどをもとに、再興を図る。
アメリカのボストン美術館には、相馬駒焼が30数点あり、その中には初代作と見られるのが3,4点あるという。大森貝塚遺跡を発掘調査したE.S.モースがアメリカに送った膨大な美術工芸の収集品の中に含まれていた。ニューヨーク市立大大学院留学時に、事実確認をしていた十五代の長女曜子さんには、十二代以前の過去の作品を区分、価値化するという任務が与えられた。
一子相伝により受け継がれて来た田代駒焼。存続の危機は、今回ばかりではない。「細い線の中で何とか継承してきた。」十五代の奥方は言う。「継続するにしても、若者が、地域が協働で活動できる状況にならないと難しい。財政逼迫の状況も厳しいですが、地方でも偏差値思考に重きが置かれてしまった日本の教育に、大きな転換が求められます。」
日本全国の伝統/文化、経済、教育などもろもろの課題の縮図にも見える。市民の社会への「参加と選択」「責任の共有」の時代である。日本の未来に向けて、市民から「志民」への変革が強く求められている。この数年が勝負である。
(※)相馬駒焼(田代駒焼)
陶芸家 田代源吾右衛門が、藩命により京都で名陶工 野々村仁清のもとで製法を学び、苦学数年にして秘奥を習得する。師から「清」の一字を贈られ、之より名を清治右衛門と改め、帰郷し開窯したのが始まり。爾来、一子相伝により受け継がれて来た。
「御留焼(おとめやき)」と呼ばれ、明治維新まで製品はすべて藩に納められ、一般に出回ることはなかった。
藩主の茶道具、什器類や、将軍家、他大名への贈答品などをつくった。
ひびと馬の絵が特徴であり、それ故に「駒焼」と呼ばれている。 淡い青緑、黄色、ピンクなど優美な色合い、 流麗な駒の絵など、一子相伝で受け継がれてきた技は、美術品・工芸品として高い評価を得ている。
手にしたときの繊細な軽さも特長で、全国の茶道関係者にも愛好家が多いとか。 表面に走る細かなヒビに茶渋が入りこみ、使いこむうちに色合いが変化していくもの魅力のひとつ。
実用重視の大ぶりで剛健なイメージの他の東北の民窯のものとは違い、古いものの中にどこか京焼を思わせるものがあったりする。「益子焼」や「笠間焼」の源流ともなった。
窯元は田代窯の一軒のみ。登り窯は東北地方に類を見ない古窯であり、現役の登窯としては日本最古の窯である。
(未来新聞 東日本復興活動「二〇三三五」第十五番)
投稿日: 1970/01/01 09:00:01 (JST)
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