記録の形

先日 開発途中の地下鉄でメモリーカードが発見されたことを本紙でも掲載した。持ち主の関係者も見つかり久しぶりの日常系の話題だ。

さて、社説としての今日のテーマは「記録の形」だ。

レコードディスクや、フィルムカメラと言ったアナログの物から先日のメモリーカードのようにデジタルの物、そして現代の「ハイブリッドデジアナ」に至るまで記録する物は大きく変化した。容量も増えたことで、より詳細に詳しくリアルに記録できるようになったことは言うまでもない。

だが、先日のニュースを読んだ読者からあるメッセージをいただいた。

「(抜粋)メモリーカードが発見されたニュース見て、昔私の祖父が言っていた<曖昧な物の方がよりリアルで実感があるんだ>ということ思い出しました。ですが、私はこの意味がよくわかりません。リアルであるなら現代のように 香りや感覚も保存されている方がよいはずだからです。」

編集部でもこのメールの送信者の祖父の言っていることについて議論をしたが、大半の記者が送信者と同様の見解を示した。一方で私を含めて数人がこの送信者の祖父は、記録ではなく記憶についていっているのではないかと提起した。 これは、記憶と記録が大きく違うからだ。

※ここからの「記録・記憶」については社説筆者による見解です。

先日のメモリーカード発見のニュースを例にとる。あの写真を見た関係者がその当時のことを思い出すのは記憶だ。極端な話をすれば、あの写真の一部が書き換えられていたとしても関係なく当時の感情を思い出すことが1番なのだ。つまり、記憶はすべてを覚えるわけでもなく・詳細に覚えるわけではなく「大切な部分」を覚えることなのだと思う。 つまり、記録は完ぺきに詳細を後からでもわかるようにすることで 記憶は、要点を自分が覚えることなのだと思う。

そして何よりも記録の形は、時代を追うごとに変化してゆく。記憶は、人間が覚えるということを放棄しない限り色褪せることもありつつも変わらないのだ。

最後に、読者のあなたも記録の形について考えてみてほしい。そこには、記録の記憶があるはずだ。

投稿日: 1970/01/01 09:00:01 (JST)

※本記事は、対象となっている事柄について、無限に広がる未来の可能性の中のたった1つを描いているに過ぎません。 ですから、決して記事の内容を鵜呑みにしないでください。 そして、もし本記事とは異なる未来を想像したのなら、それを別の記事として書いていただけると幸いです。 このプロセスを通じて、私たちは未来についての視野を広げ、未来の可能性を切り開いていくことができるでしょう。

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